ボクは囲碁のプロ棋士だ。
祖父が囲碁好きで、祖父の誕生日には祖父と碁を打つことにしていた。
それはプロになってからもずっと続いている。
だが当日が遠方での対局日となってしまえば、ボクは祖父と打てない。
そんな年は、他のプロ棋士に祖父の指導碁を頼むことにしている。
そういうわけで今年、代打指名したのは進藤ヒカル。ボクと同期の女流棋士だ。
意外と彼女の指導碁は年輩客に好評だと聞いたので依頼した。棋院を通じて。
……直接頼むほど親しい間柄ではない。
出先の宿から祖父に電話をかける。
今年のボクからの誕生日プレゼントも、祖父はとても気に入ってくれたようだ。
「進藤プロの碁は面白いな」
電話の向こうでは祖父が機嫌よく笑っている様子が伺えた。
進藤は普段から男か少年にしか見えない格好を好んでいるようだが、今回の指導碁ではきちんと女流プロらしく振る舞ってくれたようだ。
そうするように指示しておいた。もちろん棋院を通じて。
次の日曜日。
不在にした誕生日の埋め合わせで、ボクは自宅の応接間で祖父と碁を打っている。
一局を終えた時、来客を告げるインターフォンが鳴った。
「おお、来たか。こっちにお通ししてくれ」
やがて案内されて応接間に現れたのは、なんと進藤だった。
「ここって越智の家だったんだな。プロ棋士の孫がいるって聞くまで気付かなかったぞ」
祖父に勧められて進藤はソファに体を沈ませた。
タイトスカートから、揃えられた形のよい足が伸びている。
口を開かねば『良家のお嬢様』といった風情なのはボクも認めよう。
「お祖父様は進藤プロが気に入られた様ですね」
確かに祖父は色んな棋士と打つのを好む。ボクが思ったより物好きの傾向にあったようだ。
「指導碁って、まさか越智が相手じゃないよな」
「そんなわけないだろう」
「プロになる前には康介にもプロの先生をお呼びしてましたがね」
「あ〜聞いたことあります、その話」
進藤には言ったことがある。プロ試験で進藤と対局する前に。
『塔矢アキラに毎日指導碁を打ってもらってる』
謎の多かった進藤を探るために放った言葉だった。
「じゃあ、お祖父様、ボクは失礼してます」
ボクは自室に下がった。
棋譜を検討しようとしばらくパソコンを使っていたが、しばらくして祖父に呼ばれた。
「急な仕事の用が入ってな、康介、わしの代わりに進藤プロの相手を頼むよ」
「はい?」
「オレは構いませんよ、キャンセル扱いでも」
「いやいや、お呼び立てしておいて、そういうわけには。康介、頼んだぞ」
「お祖父様……?」
祖父が声を潜める。
「康介に似合いのお嬢さんじゃないか」
「!?」
どうやらこれは祖父が仕組んだボクの見合い(?)らしい。
当人同士が知り合いなのに見合いも何もないんだが、そういうつもりだ祖父は。
以前にも同じことがあったんだ。あの時は引き合わされた女性が断わりを入れてくれた。
ボクはまだ碁に打ち込んでいたい。家庭を持つなんてまだまだ先の話だ。
しかも相手が進藤だって? 何の冗談だ、これは。
「オマエって、おじいさんのことを昔から『お祖父様』って呼んでたよな」
「……変えるものでもないだろう」
客がボクの身内と判って普段の口調で喋る進藤に、ボクは安堵の息をそっと漏らしていた。
これなら見当違いだったと、祖父はこれ以上進藤との話を進めようとしないだろう。
そう思っていたのに。
「じゃあ、康介、進藤プロに失礼のないようにな。進藤プロ、ゆっくりなさって下さい」
……祖父はこんなに物好きな性格だったろうか。
「で、オレどうすればいいのさ」
「ボクに聞くな。まあ進藤は今のところお客様なんだから、楽にしてていいよ」
「じゃあさ、一局打とうぜ。せっかくだし、これ、けっこういい石じゃん」
結局そうなるか。
石を片付けてボクは進藤と向かい合った。
「よろしくお願いいたします」
進藤の手は先が読みにくい。
悪手に見えても実はそうじゃないのは、プロ試験以来ボクに刻まれた進藤の定石だ。
そして進藤に関するもう一つの定石。
盤外戦をしかけるのは不利。
プロ試験の最終日、進藤を探るためのボクの言葉に彼女は動揺を見せた。
『最終戦で進藤に勝ったら塔矢はボクをライバルって認めるってさ』
さらなる動揺を誘おうとしたのだが。
『じゃあ越智に勝ったら塔矢はオレをライバルと認めるんだな』
あの盤外戦で進藤に逆転され、対局でも負けた。
あの日以来、ボクは盤外戦において苦手意識のようなモノを進藤に感じていた。
女に口では勝てないってことに過ぎないんだが。
「あ、こんなとこに打ちやがって」
今のボクの手を読んでなかったわけがない。
しかし実際に打つのは予想外だったのか。それを隠しもしないで唸る進藤。
棋院での対局や和谷の研究会でのトーナメント戦とは違う彼女だった。
そう言えばこんな風にプライベートで打つのは初めてだ。
普段は打たない手をもっと色々と試したくなった。
「進藤は気付いてないのか?」
「んなわけねーだろ」
「へえ、じゃあ、気付いてたって言うんだ」
「当たり前だ」
「それでここに来たってことはさ、進藤にその気があるってこと?」
「……は?越智、ナニ言ってるの?」
ちょっとだけボクの口の端が上がった。
「だから、今日の指導碁、ボクと進藤の『お見合い』なんだよ」
「は……ぁ!?」
進藤の指から石が滑って彼女の膝の上に落ちた。
「な、なんだよそれ!」
進藤は石を持ち直して打ち込んだ。だがそれが失着となって進藤は負けた。
ボクの台詞にかなり動揺したらしい。
「悪かったね、こんなにびっくりされるとは思わなかった」
「いきなり見合いだなんて言われりゃ驚くだろ!」
「そうなんだ、ボクは中学校を卒業したころからこういう話は多かったから」
「なんで……あ、まあ、オマエ、いいとこのおボッチャンだもんな」
「キミから見たら常識はずれに思えるだろうな、『この年で結婚』だなんて」
いくつかの石が落ちる音がした。進藤が石を片付けてようとして床に落としたのだ。
「進藤……?」
「あ、ゴメン、これいい石なのに!」
ボクは見逃さなかった。進藤の頬が赤い。
「進藤は普段、こんな風に『プライベートで塔矢と』打ったりしてるんだろ」
更に大量の石が落ちて跳ねる音。今度は碁笥を落としていた。
「あぁぁぁ、ゴメン、これ……」
「いい碁笥だけど気にしないでいいよ」
間違いない。
進藤は塔矢のライバルだったが、今は恋人関係にまで発展していて進藤は将来のことを考えている。
あの進藤とあの塔矢が。
面白い。
ボクは対進藤用盤外戦の新しいネタを得たようだ。
……そのネタを実際に使う機会は案外少ないかもしれないが。
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